2011/01/09

[RE-POST]A BOOK OF THE WEEK

2005/01/10

今週の一冊

僕の敬愛するAdam Jones氏の著書より

『グローバリゼーションの名の下に、
コミュニケーションは加速的に拡散し、個人間の精神的な距離は縮まり、
世界を文字通りワールドワイドなものにしている様に見える。
だが、全ての事象が表裏一体であるならば、
ある社会学者が唱えるように、足かせを外された者はまた、心に鎖を繋がれるのであるとすれば、
グローバリゼーションの発展は同時に、社会を急速的に収縮し、人々の肉体的な距離はむしろ遠ざかり、世界をひどく退屈なものにしているという事でもある。

例えば、現在社会の1つの特徴でもある意識中心主義は至る所で見ることが出来る。
宗教の原理主義然り、一連の嫌煙運動然りである。
人体に害を及ぼすと考えられる数限りない大気中の汚染物質についての研究は疎かにされ、
信憑性が決して高いとはいえないタバコの害だけが大々的に取り上げられ、
(事実、20年前に喫煙者の肺がんによる死亡率は非喫煙者の約40倍であると発表したアメリカのガン研究機関は昨年それを訂正した)
人々はそれを信じ込まされていく。

ここ数年高まる先進国のテロリズムへの脅威も意識中心主義の1例と言えるかもしれない。
2001年9月11日以降、世界は混乱の一途を辿っている様に語られる事があるが、
それ以前からも世界は混乱し、テロ行為は歴史上数多く行われているのである。
ニューヨークでの9・11やイラクでの一連の自爆テロを知るものはいても、
トルコでのグルド人大虐殺や、アメリカ軍によるニカラグアでの殺戮を知るものは少ない。
規模はどちらも9・11を遥かに上回るものであり、
そしてそれはどちらも先進国によって主導されたおぞましいテロ行為であったにも関わらずだ。

私のよき友人であり、偉大な活動家である、エヴァゴラス・チャコスはこう言っている。
「9・11が歴史的に大きな意義と重要性を持つのは、その規模や残虐性などではない。
誰が被害者になったか。その1点においてである。」


-中略-

この様に、社会は拡散し、より多義に、複雑さを増しているように見えるが、
その反面、人々は分かりやすいものを求め、支持し、集束してゆくのである。

私は仕事を離れれば、こよなく音楽を愛する人間であるが、
これらの兆候は無論、音楽の世界にも当てはめる事が出来る。
与えられた労働時間、入り組んだ人間関係、複雑さを極める日々のしがらみからの逃避として、
人は誰しもが持ちうる様な表層的な感情について唄われる歌、
即ち、感情の最大公約数を唄った歌を好んで聴く傾向がある。
時間をとらない、短く、キャッチーなラブソングを。

社会からの物理的な、もしくは精神的な逃避をする事、距離をはかる事を、
私は否定することが出来ない。
ただ、私個人が好むのは、もっと普遍的な、人間そのものを体現する音楽だ。
シェーンベルグの奏でる音楽の様な。
彼の、けっして短くなく、キャッチーとはお世辞にも言えない楽曲の中で、
音と音はぶつかり合い、不協和音を奏でる。
だがその耳になじまぬ、違和感を与えるような旋律の先に、
息を呑むような、全てが重なり合う瞬間がやってくる。

そしてそれはまた離れ離れになってゆく。

私は音楽に関しては素人同然であるが、
シェーンベルグやジョアン・ジルベルトの様な
喜怒哀楽では表現出来ない感情を揺さぶり、
表現してみせる者が、真の音楽家であると強く信じる。

社会は複雑怪奇であり、人は複雑怪奇だ。
社会は醜く残酷で、同様に人も醜く残酷だ。
だが、意識中心主義的な、これらの事実からの逃避でなく、
世界の広さを、人々の多様さを、個人の思想を、
受け入れ、見つめる事の大切さと、
「人は醜く残酷だが、それゆえに美しい。」という事を、
彼らの音楽は私に教えてくれるのである。』


アダム・ジョーンズ「現代における社会と文化の相互関係」より抜粋

0 件のコメント:

コメントを投稿